桜の飛び散った花びらも地面から消え、桜の樹々は明るい緑に包まれている。幼稚園
の砂場。そこで泣いているすこし赤っぽい髪を頭の上の方で結んでいる女の子。その女
の子を慰めている保母に強い声で長い髪の女の子が、近くでおどおどしている男の子達
を指さし、言った。
「せんせぇー!こいつらが香住ちゃんに砂かけて、泣かしたんだよー!」
保母さんは優しそうな瞳を男の子達に向け、やわらかい声できいた。
「健ちゃん、敦史くん、緋威鷺くん、雅治くん、そうなの?」
「しっ、しらねェーよ!」
四人のリーダー格のような緋威鷺がそう言って、そっぽを向くと、それに追随するよ
うに健が他の二人に言った。
「オレたち、なにも知らないよなぁ?」
「あ、うん……」
うつむいて、敦史は言った。すると、長い髪の女の子が怒ったように言葉を吐いた。
「なにウソついてんのよー!」
そこに、黙り込んでいた雅治が口を開いた。
「俺がやったんだよ。ごめん」
「他の三人もでしょ!」
強い声で髪の長い女の子に言われた雅治はまた黙り込んだ。すると、すかさず髪の長
い女の子は付け加えるように、甘い声で雅治に言った。
「でも、正直に言ってくれるから、雅治くんは好きだよ。緋威鷺も、敦史も、健ちゃん
も、もう知らないっ!」
髪の長い女の子は鋭い眼光を三人に見せた後、すぐによそを向いた。その途端、敦史
が情けない声を出した。
「まりちゃーん、ごめーん」
「あたしに謝って、どーすんのよ!」
「あー、敦史、裏切んのかぁ?」
「健ちゃん、ごめん。ぼく、まりちゃんに嫌われたくないから……」
敦史は健に対し、そう言って、離れると、まだ泣いている香住の方に近づいた。
「香住ちゃん。ごめんね」
それを健は見届けると、観念したように舌打ちして、呟いた。
「仕方ねぇーな」
「なにが仕方ないのよ!」
近づいてきた健を叱責するように、まりは言った。保母がそんな彼女を宥めるように
制止すると、健は香住の側に立った。
「香住ちゃーん、ごめんなさーい」
すると、今度はまりは緋威鷺に鋭い眼光を向けた。
「緋威鷺はぁ?」
「しっ、しらねーよ!」
「しらばっくれんのかぁ?」
まりは緋威鷺に近づき、拳を挙げた。
「しつけーんだよ!」
緋威鷺はそう言い放って、まりの振り上げた拳に対して身構えた。しかし、まりはそ
の体制のまんま緋威鷺に近づいたかと思うと、ケリを入れていた。不意をつかれた緋威
鷺は痛さのあまり泣き出した。
あわてて、制止に入ろうとしていた保母さんは間に合わず、そのまま緋威鷺をなぐさ
めに行った。まりは冷めた表情で緋威鷺を見ていた。まるで鋭利な刃物のような視線で。
「香住ちゃん、ごめん」
緋威鷺はうつむいて、言った。その瞬間、まりの表情は豹変し、明るい声で香住のほ
うに駆け寄った。
「さっ、香住。いつまでも泣いてないで行こっ」
まりは香住の手を持って、引き起こした。そして、手を振りながら、言った。
「緋威鷺、雅治くん、健ちゃん、敦史ー。先に教室帰ってんねー」
香住の手を引っ張って、スキップでもしてるかのように中に入るまり。その彼女達を
追いかけるように、男の子達が走り出した。
「あー、まりちゃん、待ってよ〜」
子どもたちが去った後、保母は吐息をついて微笑んだ。
「強いコねぇ……」
洋館風の建物が緑の樹々の中に浮かぶ高台。遠くの眼下に海が見え、涼しげな柔らか
い風が樹々の葉を揺らす。建物に入っていく清楚な制服に身を包んでいる女子学生達。
この建物は学校の校舎のようだ。
横浜の高台にあるこの学校はお嬢様学校としても広く知られている私立学園。確かに,
生徒たちは規律正しく行動しているように見える。そして、どことなくおしとやかと
いう感じだ。
そんな学園の高校の校舎の二階のテラスから身を乗り出させている少女の姿があった。
少女は長い髪を首元で結ってたが、その先の髪は風に流れていた。
「そーんなコトもあったっけぇ」
明るく抜けるような声で、まりはそう言うと身を起こして、靡かせていた髪を抑え、
校舎の方へ振り返った。
「香住〜。どっかにいい男いなーい?」
そんなまりに対して、香住は呆れたような表情を浮かべて、テラスに出て、手摺の方
に歩み寄った。そして、手摺に手を付くと、海風が香住のポニーテールにしてる髪を舞
い上げた。
「まりったら、そんなコト言ってもいいのぉ?」
「え? なんでよ?」
きょとんとした愛らしい瞳をまりは香住に返した。その態度に香住は更に呆れた顔を
すると、まりの方に向かって制止して、いった。
「亜瀬ちゃんにそう言ってたって、話しちゃうよ」
一瞬、香住のほうに視線を向けていたまりの動きが止まったかのように見えた。が、
次の瞬間、笑い始めた。
「言えばいいじゃん。あいつは、ただの友達よ」
「ただの友達ねぇ……」
まりの隣に香住は寄り、テラスに手を付いた。そして、香住はまりを見た。顔をまり
は上げて、海風を浴びて、髪を靡かせながら、呟くように言葉を口にした。
「あいつもそう思ってるよ」
「そうかなぁ……」
「そうよ。あいつ、束縛されるの嫌いだし……」
「それって、まりちゃんなりの彼への愛じゃないの?」
「ぶっ。ちょっとちょっと。なんで、そうなるわけぇ? 愛とかそんなんじゃなくて、
それを知ってるってだけの話よ」
「そうなの……?」
あわてたように否定するまりに対して、不思議そうな顔をすると、香住はテラスを乗り
上げ、まりをのぞき込んだ。まりはそんな香住の方を向いて、軽く微笑むと、いった。
「じゃあ、来週の週末、聞いてみなよ」
「あ、来週会うんだ。約束取り付けられたんだ」
「なっ、なによっ、その笑顔は!?」
まりを微笑んで見ている香住を指さし、まりは叫んだ。香住はそんなまりの動揺ぶり
を嬉しそうにしていた。
「だって、まりちゃん言ってたじゃん。なかなか捕まらないんだって」
「そんなコト言ったっけ?」
あわてたように、まりは問い返した。
香住は微笑んだまま答えた。
「うん。」
そんな香住を見て、まりは顔を抑えた。指の間からは焦りの表情が見えかくれしてい
る。そんな様子のまりに、香住は訊ねるように聞いた。
「で、本当に聞いてもいいの?」
「やっぱダメっ。あいつなら冗談で言うかもしれないし。ねっ!」
懇願するまりの姿を見て、香住はまた微笑みを浮かべて、テラスの方に向かった。海
風が香住のポニーテールの髪を後方へと靡かせる。そして、呟くように言った。
「うらやましいよねぇ。そんなに想える人がいて……」
その香住の横にテラスに手をつき、身を乗り出して、まりも髪を靡かせて、さっきま
でとはうってかわった表情で、優しく微笑んで言った。
「香住も男友達……、いや、彼氏でも作りなよ」
学校の校門から少し離れた位置にピンク色のロールスロイスが止まっていた。下校時
間であるため、生徒達がひきしりなしに通るが、誰も目に止めようとはしていなかった。
というより、目を外らしているようだ。
校門から出てきた女子学生の集団の一人が言った。
「今日もきてるわよ」
「バカっ。視線を向けちゃダメだって!」
隣の鮮やかな黒髪の子があわてたように、抑えた声で言った。
もう一人のショートカットの子が車から目を反らすように黒髪の子に言った。
「あれって、橋本財団の御曹司の車でしょお。センスないよねー」
「それ以前に、新澤さんに全然相手にしてもらってないのに、よく毎日くるわよねえ」
「でも、たまに乗って帰ってるじゃない」
「無理矢理乗せられてでしょお?」
「あっ。しっ!」
集団の歩が車に近づいたところで少女たちは口を噤み、会話を止めた。そして、何事も
ないように少女たちはさっそうとピンク色のロールスロイスの脇を次々に抜けていった。
途中、車のパワーウィンドが、少し開いた。そして、そこから外を覗き見るように、
車内にいる白いタキシードを着ている男は少女たちの方に視線を向け、にやけたような
笑顔を見せた。
銀色の眼鏡を掛け、七三に整然と髪を分け、広いおでこがうかがえる。頬は頬骨がわ
かるような造り。この顔とスタイルで彼は笑みを見せたのだ。
車の位置が遥か後方になると、少女たちの表情は次々に崩れ、露骨に嫌な顔をして、
言葉を吐いた。
「見た見た〜? 超ゲログロだよね、アレ」
「あんなのに新澤さんは付きまとわれてんのね」
「お気の毒、としか言い様がないですよねー」
決してかわいいとは言えない顔の少女がすこしトーンを上げて、いった。
「けど、あんなのでも橋本財団の御曹司よー」
「そしたら、あなたが新澤さんに代わって差し上げたら?」
「いやよ。あんな超ダサダサの妖怪の相手なんて。百億積まれてもイヤよ」
「でも、西九条家の家系の彼女とあなたじゃ身分そのものが比較にならないから、代わ
るのはどのみち無理でしょうけど」
校舎の中から制服姿の香住とまりが現れる。まりは校舎を出ると、香住をその場に置
いて、急ぎ足で校門に向かった。そして。校門からのぞき込むように外を見た。
駆け足で戻ってきたまりは、香住の両肩に手を置いてうなだれた。
「香住ぃ〜、今日も来てるよ〜」
「別に、まりが落胆するコトはないと思うんだけど……」
落ち着いた様子で香住は淡々と言った。
その香住の態度にまりは急変し、怒ったように言葉を並べた。
「ナニ、その態度ぉ〜? 人が心配してんのに!」
「そんなコト言ったって、どうすることもできないし……」
「ジイさんに泣きつけばいいじゃん!」
「そしたら、お母様とお父様に御迷惑が……」
「あのねぇ……」
まりの苛立ちが露になるが、大きく息をついて、髪の毛を片手でサっと後ろに流すと、
低い声で香住に言った。
「あの猿が来てるってコトは、お迎えはあの猿ってコトでしょ。私は一人で歩いて帰る
から、香住ちゃんはあの派手なロールスロイスに乗って、お帰りあそばせ!」
「まっ、まり……!! 待ってよお!」
スタスタと校門へ向かっていくまりを香住をあわてて追いかけた。
香住が校門のすこし前で追いつきかけた時、まりは急に立ち止まった。香住は止まろ
うと思って、足を踏ん張った。が、勢いが殺しきれずに上体のバランスが取れず、まり
のお尻に香住は手をついた。そして、まりの身体に寄りかかるように、体勢を持ち直し、
聞いた。
「まり……、どうしたの?」
しかし、その言葉が言い終わる前に、大きなブレーキ音を立て、目の前にピンク色の
ロールスロイスが止まった。
サングラスを掛けた黒いスーツの巨体の男が車のドアを開けた。すると、車内から白
いタキシードに身を包んだ先ほど女子高生を横目にニヤついていた橋本が現れ、もう一
人の巨体の男が橋本に薔薇の花束を手渡した。
橋本はうれしそうな顔をして、足を踏み出そうとしたその瞬間。橋本の顔面に学生カ
バンが突き刺さり、橋本はそのまま後方に崩れ落ち、薔薇の花びらを周りに霧散させて
頭を車の床に打った。
お付きの黒いサングラスを掛けた巨体の男たちは橋本に駆け寄った。
「ぼっちゃんっ!!」
目の前の出来事に呆気に取られていた香住の腕が引っ張られるのを感じるのと同時に
声が飛んできた。
「香住っ、行くよっ!」
橋本のお付きもその声にすぐさま反応したが、橋本の方が気になり動けなかった。そ
の隙を付くように、まりは香住の手を引っ張って校門を駆け抜け、走った。
学園の柵が視界から消える頃、辺りは大きな高級住宅街に変わっていた。その中の一
軒の庭先を抜けると、まりは立ち止まった。
「香住、ちょっと待ってて」
そう言うと、まりは住宅に囲まれた路地に香住を待たせると、斜向かいの家の裏手に消
えた。
そんなに走った時間はないので、学園からそう離れていないと思うのだが、香住には
あまり見慣れない風景だった。各住宅の庭に植えられている樹々が時折流れるやわらか
な風に揺られて、音を奏でるぐらいしか聴こえない閑静な地だ。淡く感じる潮の香りが
学園との近さを思わせる程度で、なにもかも新鮮に見えた。香住は思わず微笑んでいた。
しばらくすると、まりの消えた方向から高い金属音が聞こえ、それはエンジン音とな
って、だんだん大きくなってきた。道にフっと現れた茜色のレプリカバイクは、軽いブ
レーキ音をたて、香住の前で止まった。
バイクに跨っていた人は香住と同じ制服を着ていた。フルフェイスのヘルメットを香
住に投げると、後ろに乗れと指で後部座席を指していた。けれども、それでも香住がき
ょとんとしていると、その人はヘルメットのフードを開けた。
「香住ぃ〜。私だよ、あ・た・し」
「あら、まり……。どうしたの?」
ヘルメットを両手で抱えたまま、不思議そうに香住は聞いた。
まりは香住の方を振り向くと、なんでもないように応えた。
「ああ、このバイク? 知り合いのよ」
「知り合いって、また男の子でしょ……」
「別にいいじゃん。あの猿が毎日うざいから頼んでたのよ。それより、早く後ろに乗り
なよ」
あっけらかんと応えるまりに香住は吐息をつくと、ヘルメットを被り、バイクの後ろ
に跨った。そして、まりの腰に香住が手を回すと、まりはアクセルを回してクラッチを
離し、スタートさせた。
緑の樹々の続く住宅街の道を細々と走り、抜けると、海に向かって下り坂の道に出た。
バイクの後ろのシートに座っていた香住はヘルメットのフードを開けると、まりの顔に顔を
近づけ、叫ぶように言った。
「ねェ、どこに行くつもりなのぉ!?」
「関内〜」
ヘルメットのフードを開けて、ちらっと香住に視線を向けると、まりはそう言った。
香住はその言葉に驚いたような表情を浮かべ、まりに言葉を投げつけた。
「ちょっ、ちょっとぉ。反対方向じゃないの!?」
「そうだよ。映画でも観ていこーよ」
「どうしたの?急に……」
「このまま直に帰ったって、あのサルとお食事でしょ?」
「まぁ、そうだけど……。でも、この制服のまんまじゃマズいんじゃない?」
T字路になっている処で信号に捕まった。しかし、ウィンカーも出さずに停止したま
ま、まりは少し考える素振りをしていた。そして、香住の方に振り返ると、言った。
「んじゃ、元町でも寄りますか」
そう言うとまりはヘルメットのフードを閉じて、ウィンカーを出すと、信号の変わっ
た道路に飛び出していった。
5 まだ夏服の姿の人の多い元町の雑踏。お洒落なお店が並んでいて、人々はそんな店を 横目に流れていく。そんな中の一軒のブティックの店頭に、まり達の乗っていたバイク が停めてあった。 店の中から声がする。元気の良さそうなまりの声だ。 「へっへ〜っ。香住、それ似合うじゃんっ」 「そうかなぁ……。すこし派手じゃないかなぁ」 「いいじゃん、いいじゃん、そのぐらい。あ、支払いはこれでね」 香住の姿を見てまりは言うと、レジの店員に向かってカードを出した。 関内駅近くのガード下にまりはバイクを止めると、香住と二人で馬車道に向かって、 歩き始めた。そして、そう遠くない距離にある映画館に吸い込まれるように入っていっ た。 時計と見合わせ、ちょうど始まったばかりのフランス映画に決め、二人はその劇場に 入った。館内は既に暗くなっており、その劇場で次からやる映画の前予告がスクリーン に映っていた。平日のせいか観客はまばらのようだった。まりは香住の手を引っ張って 、中央の通路を身 体を低くしながら前の席の方にいき、見やすい位置の通路側の席に着いた。 「よかったね。ちょうどいいのがあって」 「うん」 まりの言葉に香住が小さく頷いた。そして、二人はジュースの紙コップを椅子の脇に 差し、視線をスクリーンに向けると、膝の上のポップコーンを口にした。 コメディタッチでありながら、くさいんだけど自然な演出、そして綺麗な女優さんと 映像。そんなフランス映画にすこし涙した香住が隣に目を向けると、まりはけらけら笑 っていた。 やがて、クライマックスを迎え、エンディングが流れると、観客が次々に 席を立つ音が聞こ え、ドアを開く音と同時に外界の光が館内に差し込む。けれども、まり達はまだ座った ままエンディングを観ていた。そして、エンディングが終わると、場内は灯が点いて明 るくなった。 まりは大きく背伸びをすると、香住のほうを向いて、いった。 「さて、ごはんでも食べに行こっか」 「どこで?」 「どこにしよっか。あのサル、こっちまで来てないでしょーねぇ……」 椅子に腰掛けたまま考え込み、まりは腕を組んだ。その時。 「あれっ? なんで、こんなトコいんの?」 その声に、とっさに聞こえた後方にまりは顔を向けた。そこには通路を下りてくる卵 型の眼鏡架けた男の姿。男はポケットから片手を抜き出して、手を上げた。 「よっ!」 「なんだ、あんたか……」 「なんだとはなんだよ」 男はまりの隣の席の座面を下げ、座りながら言った。 まりの隣に座っていた香住を遠卷きに見ながら、言葉を続けた。 「めずらしいやん。まりの連れが女なんてさ」 「あ、彼女がよく話してる香住。香住、紹介するよ。これが亜瀬」 香住に顔を向け、親指で亜瀬を差して、まりは言った。 驚いた亜瀬は少し歩を進め、香住に近づくと、瞳を軽く合わせて、微笑んだ。 「へ〜。この娘がか……。あ、亜瀬と申します。よろしく」 「あ、新澤香住ともうします。お噂は兼ね兼ね伺っております。こちらこそ宜しくお願 い致します」 亜瀬の言葉に対して、丁寧に深々と頭を下げて香住は言葉を連ねた。亜瀬はつられた ように深々と頭を下げ、また再び会釈をした。そんな二人の姿にまりは呆れたような顔 をすると、亜瀬に向かって、言った。 「今日は学校サボったの?」 「いや、開校記念日。映画の日だから、朝から観に行くって。言わなかったっけ? ち なみに、これ、3本目。おまえこそ、こんな時間に私服でなんて……」 「ああ。制服はこの中」 まりは座席の下に置いてあった黒の小型のリュックサックを取り出した。 リュックサックを抱えながら、まりは亜瀬にはき捨てるように言葉をこぼした。 「こんな時間って、もう5時過ぎよ」 「映画が始まったのは二時五〇分やろ?」 「ま、色々あんのよ。それより夕御飯でも食べない?」 「君の奢り?」 軽く笑って亜瀬は返した。 あきれたような顔をすると、まりは言葉を並べた。 「なんで奢んなきゃいけないのよ。大体、君に奢ったら、いくらあっても足りないじゃ ない。あっ、どこかいい店知らない?」 「なんで地元のおまえが地元でないオレにきくんだよ」 「だって、徘徊・探索好きじゃない。当然、この辺もしてるんでしょ?」 まりはにっこりと微笑みかけて、いった。
6 夕陽はもう西の方に消えかけていた。街は闇に包まれる前に街灯やネオンがともって 、鮮やかな光に妨げられていた。馬車道を映画館から海に向かい、少し脇に入った所に 小じんまりした隠れ家的な店があった。そこに亜瀬は二人を案内していた。 感心したように香住が言った。 「亜瀬ちゃん、あ、亜瀬さんって……」 「ん? 別に亜瀬ちゃんでもかまへんよ」 顔をテーブルから上げて、亜瀬が言った。 テーブルの上、亜瀬の近辺には皿や器が多数重ねられていた。そんな風景に香住はす こし畏怖したように、言葉を並べた。 「よく食べるんですね……」 「そお?」 「これでも抑えてるほうだよね。懐の関係で」 軽く笑うと、まりはそう亜瀬の顔に視線を向けて、いった。 まりは香住の方に視線を移すと、不思議そうに言葉を投げかけた。 「でも、香住にはよく話してたんだけどなぁ……」 「なにを話してたんだか……。いらんコトは話すなっちゅーの」 大げさに悩む素振りをしているまりに亜瀬は冷たい視線を投げかけて、呟いた。 パンを口に放り込み、コーヒーを亜瀬は口にした。彼の幸せの一瞬である。目前の平 らげた食料の量とは裏腹に平然とした表情だ。そんな亜瀬の顔に視線をまりは軽く当て、 ぽつりと言った。 「香住に手ェ出したらダメだからね」 「ぶっ。」 まりの一言に亜瀬は吹き出して、噎せた。すこし苦しそうだ。そして、まりの方に顔 を向けると、言った。 「なっ、なにをいきなり……」 「いちおう言っておいた方がいいと思ってさ」 視線を外し、あっけらかんとまりは言葉を返した。 そんなまりの姿に亜瀬はすこし考えるような表情を浮かべるが、すぐに普通の顔にし て、コーヒーカップを持ち、口をつけた。そして、言った。 「オレは他人の女には興味ねーよ」 「ひっ、他人の女って、なによ? 香住は……」 「しやから、君のやろ?」 亜瀬がそう言って薄笑いを浮かべるのと同じぐらいに香住は赤面した。その香住を見た まりはテーブルを叩いた。 「ちょっ、あんたっ……」 「ん?」 「いや、なんでもないわ。それでいい……」 まりは軽く頭を抑えると、言葉を濁した。そんなまりの様相に香住は目を向けながら、 軽く微笑んだ。
香住たちが店を出る頃、街はすっかり闇に包まれ、街灯やネオンが入った時よりも映 えていた。そして、側道は路上駐車の車が敷き詰められていた。香住たちは馬車道に出 て、関内駅に向かって街路樹の並ぶ道を歩いていた。 「あーあ。もうすっかり真っ暗ね〜」 「そらそーやろ。店入る時には既に陽が落ちてたんやし」 まりの言葉に亜瀬が冷たくあしらうように言った。 それに対し、まりは少しムっとしたように言い返した。 「あんたね〜。なんで、そういう言い方しかできないわけぇF」 「今更なおんねーよ。知ってるもんやと思ってたで」 「知ってたわよ。でも、すこしぐらいは成長するかと思ってさ」 軽く笑って返す亜瀬の言葉に、まりは軽く笑い飛ばした。 その二人のやりとりを聞いていた香住がクスっと笑い声をこぼした。 「なっ、なによ香住!なにがおかしいのよF」 「別に〜」 焦ったように香住にまりは顔を赤くして言葉をぶつけたが、香住は軽く微笑んで前を見 た。 そんなまりの後ろ姿から視線を外して、亜瀬は両手を頭の後ろに回して組ませると、 呆れたように言い放った。 「なーにムキになってんだか」 「なっ、誰がムキになってんのよ!?」 亜瀬の言葉に少し膨れたような顔をまりはすると、そのまり顔に亜瀬は人差し指を向 け、そのまま、つんっと当て、いった。 「君〜」 「きっ、気のせいよ」 まりは少し赤面し、困ったような顔をして否定すると、顔を背けた。 香住はそんな二人の方を見て、やわらく微笑んでいた。 関内駅の切符売り場の白灯の光が馬車道からも見える距離。亜瀬は左隣を歩いている まりに左手を軽く上げて、いった。 「この辺で。君ら電車とちゃうんやろ」 「ああ、ホームまで送るよぉ」 「かまへん、かまへん。それに、そのコ、送ってあげなあかんのやろ?」 まりの左隣を歩いている香住の方に視線を指して、さらっと言った。 香住はその話と亜瀬の視線に慌てたように言った。 「あっ。今日は横浜の家に帰りますから……」 「横浜の方の家? ま、詳しくは聞かへんけど。へ〜。ま、あのガッコ、お嬢様学校や からな〜」 「そっ、そんな……」 亜瀬の言葉にすこし俯く香住。そこに間髪入れずに、まりが割って入った。 「わかってるじゃん、私がお嬢様だって」 「君は特例やろぉ?」 目を細めて亜瀬はまりに横目を向けた。 それに対し、まりはすぐさま言葉を返した。 「あんたに言われたくないわよ。あーただって、異端のくせに〜」 そして、まりはクススっと笑った。
7 関内駅の東口、白い光の中から香住とまりが出てきた。緩いスロープの坂を寄り添い ながら下ると、そのまま車通りの少なくなった馬車道を渡り、高架下に置いてあるバイ クの所に駆けていった。 背中のナップザックを下ろすと、まりは中からバイクのキーを取り出して、ヘルメッ トをバイクから外し、1つを香住に渡した。そして、キーを計器板近くに差し込むと、 まりはナップザックを背負い、バイクに跨った。その時。 七三に分けた髪を振り乱しながら、まだ白のタキシードを着ていた橋本が、駅の横浜 公園の方から叫ぶように金切り声を上げて、言った。 「いっ、いたわよー!!!」 「ちっ。相変わらずしつこいわね〜」 まりは軽く舌打ちすると、ヘルメットをスっと被り、後ろを向いて大きな声で言った。 「香住っ。早く乗ってっ!!」 「あ、はい、はい」 香住がバイクに跨ると同時にまりはエンジンを回し、香住の腕が自分の腰に触れるの と同じぐらいにクラッチをゆっくり離して、橋本らが向かってくる方向にスタートさせた。 はあはあと息を切らしながら迫ってくる橋本らの目の前でハンドルを切り、怯む橋本 らを後目にして、高架をくぐり、信号が青になるのを見透かしたようにスピードを上げ、 青に変わった交差点をすり抜けるように桜木町方面に走り去った。 後ろから電車の流れる音。ここは横浜市街からずっと北にいった荏田駅の前。気がつ いたら、彼女らはこんなとこにいた。二人はバイクを下りて、ヘルメットを脱いだ。 「これじゃ、世田谷の家まで行ってたら……、んんー、仮に行けてても、まりは帰れな かったわね、きっと……」 やれやれといった表情で香住は呟いた。その言葉を無視するように、まりは背中のナ ップザック下ろすと、ゴソゴソと中に手を入れて、中から携帯電話を取り出した。 「あー。校則違反なのに持っていってるの!?」 「なに言ってんのよ、香住。今時、持っていっていないコなんていないわよ」 「だって、見つかったら没収じゃない……」 「バレないよーにすればいいのよ。あ、ちょっと……」 言葉途中でまりは自分の声を遮った。電話の相手とつながったらしい。そして、まり の声と話し方がガラリと変わった。 「あ、私ぃ。今、荏田駅とかいうトコの前にいるんだけどぉ、迎えにきてっ」 電話の相手は男なんだろうなぁと香住はピンときた。 「そうなのぉ。ほらっ、道に詳しくないからぁ……。ん?電車で帰ってこい!?」 まりの表情がすこし険しくなる。 「そーいうコト言ってるとぉ……。ん? いやっ! じゃあね」 まりはそう言うと、すぐさま電話をすぐさま切った。 携帯を畳むと、まりは乱雑にナップザックに放り込んだ。 「ちょっと、そこで待っててね」 そう言い残して、まりは駅舎の中に消えた。香住がなにか言葉を発しようとする前に。 一人残された香住は仕方なしに軽くバイクに依りかかった。駅舎から吐き出される通 行人の視線が時折あたる。それが香住自身に向けられているのか、バイクに向けられて いるのかわからないが、香住はなんとなく照れくさそうに下を向いた。 そこに一見好青年っぽい男が近づいてきた。 「どうしたのぉ? 一人?」 「えっ? いえ……」 「これから夜ご飯でも一緒にどう?」 男はそう言うと香住の腰に手を回した。 男が話すたびに男の息の臭いが鼻につく。酒が入っているようだ。そんな男に対し、 香住は穏便に事を済ませようともがいていた。が、その時。 男の表情が苦痛に襲われたような表情に変わった。そして、男の後方から耳元に囁く 声がする。 「エンコ(援助交際)は犯罪よ。お・じ・さ・ん」 男は急いでその場から距離を取り、側頭部を抑えながら振り返った。 「なっ、なにしやがるっ!?」 振り返った先にはベンチの上に立っているまりがいた。その男の顳かみに拳を当てがった ようで、 拳をフーフーしていた。そんなまりに男は少し安心したように言った。 「なんだ、もう一人いたんだ」 けれども、まりはそんな言葉は耳に入ってないようで、ベンチから飛び降りると、つ かつかと男に近寄った。 そんなまりに、男はすこし気取ったような声で言った。 「君も一緒にどう?」 「そうねぇ……」 まりはかわいらしい微笑みを浮かべ、そう応えた。その言葉と共に、男の顔が二段回で青くなった。 まりが言葉と同時に左足で男の右足を踏みつけて、次の瞬間には右足の膝を男の股間に 打ち突けてたのだ。 股間を抑えながら、涙目で雑踏に消えていく男にまりは大きく手を振った。そして、 その手の動きが止まると、まりは身体の向きをかえ、香住に詰め寄った。 「香住〜。あの程度、なんとでもできるでしょーに……」 「でも……」 うつ向く香住にまりは表情を変え、はきはきと言った。 「ま、いいよね。毎度のコトたし。香住、行くよっ」 「行くって、どこに?」 不思議そうに問い返す香住の前を行き過ぎ、まりはシートの上に載せてたヘルメット を被って、そのままバイクに跨ると、いった。 「世田谷の家に決まってんじゃん。今夜は一緒に寝させてね〜」 「道はわかったのぉ?」 すこし吐息をつくと、香住もヘルメットを被って、質した。 それに対して、まりは明るく笑って、応えた。 「一応、駅員さんに聞いたし、あとは道路標識見てりゃなんとかなるでしょ」 「また迷子になっても知らないわよ」 「なーに、道はどっかしらつながってるわよ」 心配そうな香住の言葉にまりは陽気そうに笑い飛ばすと、バイクをスタートさせ、一気 に加速した。 香住はというと、やれやれといった諦めにも似た表情を浮かべると、まりの腰にしが みついた。そのしがみついた香住の顔からは笑みがすこしもれた。
東の方の空が明らみ、少しずつオレンジ色の球体がやわらかい光を強めつつ地平線か ら浮かんできた。背後の窓からは、道を挟んで、左右のコントラストをつけている富士 山が聳えている。その富士山から目を外し、下着姿で珈琲を片手に窓から日の出を見て いるまりに香住は 不満げな声をかけた。 「なんで、こんなトコにいるんだろ?」 その声にまりは視線を向け、にこやかに笑いながら、応えた。 「まだ言ってるぅ。仕方ないじゃない」 「そっち行くと、高速道路だって言ったのに……」 うつ向き加減に香住は呟くように言うと、香住はソファーに腰を下ろして、前髪をかき あげるように額に手をあてた。 珈琲を飲みながらまりはその言葉を聞き終えると、コップを口から離してゴミ箱に放 り込んだ。そして、ベッドに腰掛けて、淡々と言った。 「世田谷の家の方に、あのサル共がいるとは思わなかったんだもーんっ」 そう明るくあっさりと言うと、まりはベッドに倒れ込むように横になり、ゴロゴロと 転がった。そして、ベッドの反対側まで転がると、上半身をムクっと起こして、香住に 視線を向けた。 香住はそれに対し、ちょっと身構えるように言った。 「な、なによ?」 「香住ぃ〜」 言葉を言い終えるかどうかのぐらいにまりはそう叫んで香住に飛び込んだ。 しばらくの間、二人はきゃーきゃー言いながらもみあった。そして、一段落すると、 まりは息をはぁはぁ言わせながら身体を離して、距離を取って、対面の床に座り込んだ。 静かにまりは言った。 「香住。ゴメンね」 いつもは纏めている髪をばらしていたから、すこしうつ向いているまりの表情は乱れ た髪に覆われて香住には見えなかった。けれども、その悲しそうな言葉から、見なくて も、なんとなくはわかっていた。 香住はソファーを立ち上がると、まりの手前でしゃがみ込み、まりを抱きしめた。 まりの章 END